チェルノブイリ・5年目の移住者〜除染から移住に転換した町


チェルノブイリ原発事故から3年が経過した1989年。ソ連共産党の機関紙プラウダは、政府によって隠ぺいされていた汚染地図を報道した。汚染ははるか100キロ以上にも及び、避難していなかった30キロ圏外の汚染地域には激震が走った。ウクライナ報告第3弾は、チェルノブイリ原発から55キロのポリスケ市に住んでいたハルバラさんご家族のインタビューを配信する。
 
■除染に力を尽くした町・ポリスケ

ハルバラ・タチアナさんは1985年に結婚。1986年1月に長女イーリアさんを出産した。しかし4月26日にチェルノブイリ原発事故が発生。不安の中、娘を抱いて5月4日に町から避難。しばらくの間サナトリウムに滞在していたものの、市は帰還を決定。8月には娘を連れて、ポリスケに戻った。
 
住民が帰還すると、ポリスケ市は除染を徹底。学校や住宅は水洗いだけでなく、線量が下がらなければ屋根の葺き替えをしたり、アスファルトを張り替えるなど、あらゆる手段を尽くした。また、事故までは多くの家庭が薪を使っていたが、ガスを整備。水道や下水道も完備した。
さらに、住民には給与を倍額支給するなどの支援策を実施。学校の先生をしていたハルバラさんも例にもれず、通常であれば100ルーブルであった給与が200ルーブルになった。また住宅に関しても、ソ連の一般的な水準よりも一部屋多いアパートを提供することになったため、ハルバラさんのように子ども1人の家庭は通常2DKのはずが、3DKの家が提供された。こうした環境整備により、多くの住民はこの町に住み続けたが、その一方で、放射能を恐れて自主的に避難する人もいた。
 
■原発事故から4年目に強制移住が決定

しかし汚染地図の公表によって町の汚染レベルが低減していないことが判明。同年12月に14歳以下の子どもがいる家族に「移住の権利」を認める決定が採択され、2カ月後には子どもや妊婦のいる家族は「強制移住」となった。さらに8月にはお年寄りを含むすべての市民が強制移住の対象となった。
 
ハルバラさんは1991年に家族で、キエフ州の南東の町プレスラブ・ヤレニツキに移住。以来、20年間、同じアパートで暮らしている。事故当時0歳だったイリーナさんは去年、プレスラブ・ヤレニツキの地元の男性と結婚。今年男の子の赤ちゃんを出産した。
 
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