林家彦六(八代目 林家正蔵) 目黒のさんま*


時間 00:20:19  公開 2013年9月22日
林家彦六(八代目 林家正蔵) 目黒のさんま*
林家 彦六(はやしや ひころく、1895年5月16日 - 1982年1月29日)は、落語家。
東京府下荏原郡品川町(現在の品川区)出身。
生前は落語協会所属。本名は岡本 義(おかもと よし)。
前名の林家正蔵としては8代目。俗に「彦六の正蔵」。
出囃子は『菖蒲浴衣(あやめ浴衣)』。
噺家からは居住地の「稲荷町(の師匠)」また性格から「トンガリの正蔵」と呼ばれた。
妻は岡本マキ(上方落語家4代目古今亭今輔の妻と姉妹)。
息子は日本舞踊家花柳衛彦。芝居噺や怪談噺を得意とし、正蔵の名を更に高めた。


●来歴・人物
母方の祖父は、鎌倉河岸の船宿「岡本屋正兵衛」に生まれた息子だったが、岡本屋を飛び出して鳶職・火消しになってしまう。祖母は武士の家出身で、その二人の間に生まれた娘が、岡本義(後の8代目正蔵)の母親である。

稲荷町時代の逸話、名跡の返還など古き良き江戸噺家として名を残した事でも知られる。
「かくしゃくとした老人の噺家の代名詞」としてビートたけしなどに引き合いに出され、秋本治の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」では「彦六みたいな奴だ」との台詞が登場する。

独特な人柄、最晩年の非常に特徴的なヘナヘナしたしゃがれ声やスローなテンポの話し方などから、落語家などに物真似されることが多い。

語尾を曖昧にせず常に明瞭に発声する独特の語り口は、若い頃に三遊一朝に徹底的に芝居噺を仕込まれたためだと本人は語っている。
林家木久扇は二つ目昇進まで付人として面倒を見て貰った師匠彦六の物真似が得意で、新作落語「林家彦六伝」を十八番としている。

通称「トンガリ」。曲った事が嫌いで、すぐにカッとなるところから来ている。弟子に対しても、失敗する度に破門を口にする。しかし謝れば許し、翌日にはもうケロリとしている。

自身が贔屓にしている共産党金子満広などに、参院議員時代の7代目立川談志が侮辱的な野次を飛ばして辞職後も場外で続けていた事を快く思っておらず、会えばしょっちゅう喧嘩になっていたという、いかにも通称「トンガリ」らしいエピソードがある。

その一方で談志については、「自殺するのではないか」という危惧を親しい知人にしばしば漏らしていた。なお、談志本人も自殺願望があったことを後に認めている。

江戸、明治の香りを沢山持った人物だが、オフの時は英国調に洋服も着こなし、朝食には必ずジャムを塗ったトーストにコーヒーを賞味するという、意外にも現代的な生活を好んだという(後述のように住居は、近所に銭湯もある、古い時代の面影を残した長屋だったが、同時に小路の向かい側はモダンのはしりであった同潤会アパートのひとつ上野下アパートメント(現存)である)。

5代目柳家小さん名跡の襲名をめぐり、彦六は弟弟子9代目柳家小三治(後の5代目小さん)と争ったが、当時の大御所である8代目桂文楽に若いながらも見込まれていた9代目小三治が5代目小さんを襲名することになる。

替わりに貰う事になったのが、空き名跡だった8代目の正蔵であった。この際に浅草の金看板だった「山春」山田春雄は興行の関係で彦六と縁があった関係で法界悋気を病んだと「聞書き」の中で北村銀太郎は説明している。


●「正蔵」襲名と「彦六」への改名
いずれは名跡を三平に返上するつもりでいたが、三平の好意により終生正蔵を名乗る事とし、自らの死後三平に返上する事にした。
しかし1980年三平急逝に伴い、正蔵の名跡を海老名家に返上、「彦六」に改名する。
由来は木村荘十二の監督した映画、『彦六大いに笑ふ』(1940年)で徳川夢声が演じた役名彦六から。

正蔵名跡の海老名家への返却の経緯として、7代目の息子三平の死去を契機としたことが建前になってはいるが、実際の処は8代目正蔵と海老名家との衝突である。
8代目正蔵の、海老名家に対する絶縁宣言の表明としての名跡返却であったと川戸貞吉がラジオ番組で明かしている。


★落語チャンネル/ネット寄席より
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